霜里農場略歴・著書など > 金子美登 略歴
金子美登 略歴

オーガと美登さん  金子 美登(かねこ よしのり)

 1948年 当地に生まれる。
 71年農林水産省の農業者
 大学校の第1期生として卒業。
 同年当地で有機農業を始める。

 現在小川町議会議員、
 NPOふうど理事。


1948 埼玉県小川町下里に生まれる。
祖父、祖母の時代は養蚕と機織
両親の代は酪農。3歳のころ父は乳牛を飼い始めた。
小学生のころ、父の手伝いで牛の乳絞り
1960ごろ 父が乳牛を2頭から30頭に増やし、近代酪農に。
熊谷農業高校で酪農を学ぶ。
減反政策がはじまる。
牧草、運動たっぷりの酪農ではなくなる。輸入飼料の大豆粕のため生まれる子牛に無脳症の奇形が出る。
熊谷農業高校で酪農を学ぶ。酪農専業を考えていたが、牛の糞と格闘する青春に疑問も。
そのころ減反政策始まる。田植え機も普及
1968 農水省が開校した農業者大学校の1期生となる。
県と国の試験をパスし、農業者大学校1期生となる。対象は農業経験2年以上の者。
「幅広い農業をつかみなおしたいと想った」
父は、乳牛を縮小、養蚕をやめる。
1970 農者大2年。有機栽培の米と野菜を直接地元の消費者に届ける発想。
農業の存在理由を問い詰めるなかで発想の転換をえる。米と野菜を無化学肥料、無農薬で作り、直接地元の消費者に届けるという構想が生まれる。
1970 自給、循環の複合経営を始める。霜里農場。
卒業後すぐに、豊かに自給、そして循環する生態学的農業、後の有機農業を始める。田んぼと畑を合わせて2ヘクタールでスタート。「青春のすべてをたたきつけて取り組んだ」。霜里農場。水田8アール、畑120アール、乳牛、鶏で有機農業を発足される。孤独の実験。会費制自給農場を目指す。地元で消費者10軒を探すが、なかなか見つからない。
1971 公害元年。日本有機農業研究会の活動広がる。
(1971年公害元年。日本有機農業研究会が各地で農民を中心に医師、学者、消費者が参加)
1973 わだち会会長(小川町農業後継者クラブ)。
1973
8月
インドネシアの開発輸入の農場を視察。
同農場は1983年に失敗。
1973
11月
町の農業祭で若い母親達と知り合い、環境問題、有機農業関連の本を使い、野菜を手みやげに読書会を発足させる。
同年、石油ショック起きる。
1975 農薬の空中散布の中止を求める。
1975 「複合汚染」有吉佐和子さんが見学に来る。
1975
4月
消費者10軒での会費制自給農場スタート。
読書会の母親達を中心に10軒の消費者に、米、麦、野菜の提供を始める。会費制の自給農場のスタート。週2回の配達、月1回の運営会議。1家族で米20キロ、卵多いときで80個、少なくて20個。牛乳も。野菜は常に20種類ほど。月額二万七千円。消費者が草取りなどを手伝う。
1976 司馬遼太郎「土地と日本人」に感動。
司馬遼太郎氏の「土地と日本人」に感動する。有吉佐和子さんらと座談会になり、後に「複合汚染その後」(潮出版社、1977年)にまとまる。
1976 会費制自給農場に問題発生。
会費制に問題が起きる。左の政治的立場を求め、土地の共有まで主張する人が出てくる。10軒のうち2軒。
1977
2〜3月
フランス・スイス農業研修へ
36日間にわたってフランスとスイスの有機農業の農場を体験。
1977
4月
会費制自給農場の失敗。暮らしに不安無し。
会費制のグループとの話し合いが繰り返される。人生第最大の試練の時。生と死を考える。会員の信頼関係が崩れ、25ヶ月にして会費生自給農場の閉幕。収入はゼロになるが、食糧自給の強みを実感する。暮らしに不安なし。
1977
6月
お礼制農場を考えつく。
1977
7月
お礼制農場を発足。
お礼制農場を発足。5人家族で1月に米20キロ、小麦粉2キロ、卵80〜20個、15〜20種類の野菜。週2回の配達。東京の消費者も加わり。東京へは、月1回。自由、気ままに農業に打ち込める。お礼の金額は会費制当時の月二万七千円を参考にする。
1978 日本有機農業研究会幹事。
1979 農業研修生受け入れ開始。
1979 新居を建て始める。
1980 冷害で有機農業の強さが実証される。
1981 日本有機農業研究会常任幹事。
1981 主食の米を基本とした10戸以外に野菜、卵を衷心に 一袋野菜を始める。消費者グループに月3〜4回提供、現在30戸。
1982
4月
第一回種苗交換会 開催。
大企業による種子の独占を阻止するために、種苗交換を始める。東京、茨城、千葉、埼玉、群馬、神奈川、長野の農民が参加して第一回の「有機農業の種苗交換会」を霜里農場で開く。
1982
4月
1984年の冷害で韓国から米を輸入。
1985 デンマークからの研修生が来る
デンマークから有機農学校を卒業した二人の若い女性が研修に来る
1987 農薬の空中散布の中止が下里地区で実現される。
1987
10月
ネグロス島を視察。
1988
1月
ゴルフ場問題はじまる。業者がついに訪れる。
1988
5月
ゴルフ場に関する公聴会
1988
リゾートゴルフ場問題全国連絡会事務局メンバー。
1988
6月
仲間達の有機米と山形県高畠町の星さんの有機米を使って、地元の晴雲酒造と無農薬米酒に取り組み、「おがわの自然酒」として販売。
同時に小川精麦と「石臼挽き地粉めん」作りにも取り組む。
1988
8月
小川町・緑と水といのちを守る会が発足。
1988
12月
玉川カントリーをストップ。
1992
2月
パリでの国際会議(OECD(経済協力機構)主催の「持続的農業のためのワークショップ」)に日本の有機農業者代表として参加。
友子夫人とともに15年ぶりにパリを訪れる。国際会議にNGOの有機農業者として参加。(水田1ヘクタール、畑1.2ヘクタール、山林1.5ヘクタール、乳牛3頭、鶏100羽で、日本では平均以上の規模。40軒の消費者に支えられる)
1993 冷害で米の凶作を予感、急いで麦作を増やす。翌年ジャガイモとサツマイモを増産し、消費者との自給農場完成へのめどがつく。以後米麦2期作の復活にも力を入れる。
1994 農林水産省農業者大学校同窓会長。
1994 乳牛の糞尿、生ゴミを使い、バイオガス施設を建設。台所のガスを自給する。
1995 仲間14戸で小川町有機農業生産グループを結成、代表者となる。その仲間と「無農薬・有機農産物の店」をオープン。
1996 小川町自然エネルギー研究会設立される。
1997 水田除草にアイガモ導入。農林水産省農業者大学校人文講師。
1997 就農準備校、有機農業専門コース小川教室講師、月2回年間40名の生徒を受け入れ。
1998 就農準備校、東京・代々木教室講師。小川町農業委員会委員。
1998 「小川町自然エネルギー学校」第一回開催。
1999 小川町議会議員。小川町環境基本計画策定町民協議会委員。いよいよ、有機農業と自然エネルギーを町全体に広めるための活動。小川町経済建設常任委員会。小川町環境審議会委員。小川地区衛生組合議会委員。
2001 厚生文教常任委員。議会公報発行特別委員会委員。
2001
9月
バイオガスによる生ゴミ資源化はじまる。
小川町環境基本計画策定の一環として自然エネルギー研究会と町が連携して、町内の東小川団地の14世帯から生ゴミを回収、バイオガスプラントで資源化。
2002
7月
NPOふうど「小川町風土活用センター」設立。
2003
3月
小川町環境基本計画。
2003
4月
生ゴミ資源化、町内2団地の100世帯に広がる。
2003
7月
小川町議会議員2期目に当選。食・エネルギー自給循環型の町づくりに向けて本番の活動開始。
2003
7月
下里地区の4.3haの転作田で有機大豆栽培。
下里機械化組合と小川町有機農業生産者グループで、
完全無農薬有機(県の特別栽培扱い)の大豆を作付け。
大豆は都幾川村の「豆腐工房わたなべ」が買い取り豆腐などになる。今年は小川町の「清水豆腐店」も買い取る予定。 8月には県の農林部長が視察し、大豆用コンバインの補助が出る。下里地区は今後3年間で完全有機になる可能性も出てきた。
2003
11月22日
霜里農場で火災が発生。築300年の母屋をはじめ、多くの物が燃えた。おばあちゃん(いちさん)は研修生によって無事救出、牛も自ら逃げる。
2004
7月
下里地区の無農薬無化学肥料栽培の大豆作付け面積、5haに。

<略歴編集:研修生>

戻る